ファンタジーと現実の間

目に見えないこころのこと こころと向き合うゆとり世代の生活

身体表現性障害、解離性障害

見事だった。
見入ってしまった。

私と同じ解離を持つ人はいつだって華麗に交代や失神をする。

その姿を見ると私はなんだろう、この神秘的なさまは…と想いを馳せるのだ。

その直前には過度に緊張する出来事があり、
その、緊張やストレスを私は感じ取る。

あ、あの瞬間だ。

あの瞬間を避けてあげさえすれば、交代する頻度も、失神をする頻度も減ったのに…と後悔の念が募る。


その瞬間を切り取る。


解離はね、
解離する前は覚えてるのという言葉。

後で聞いてごらんと。

何がおきたか。その現象の意味を私は知る。

解離する直前の出来事にはパターンがある。

「ショックだった」
「自分の価値は?」
「助けてくれなかった」
「見放された」

などなど。

そう、ショックの適応を解離して記憶をなくす手段として保持してしまう。


ただ、そこから安心して話せる環境の中で、だんだん、ショックという言葉以外の感情が話せるようになってくれば、解離しなくてもいられるようになるのではないか?と私は考える。


ただ、安心して話せる環境でなくてはダメ。

そこが大事。

だから、私はいつでも話して、教えて、何が起こったの?と聞くことを心がけている。

些細なことなんですけどというものが全く些細なことではない。

その本人にとっては、心の深いところに行き着いてしまう理由がある。


そのことを知ってから、わたしは深く聞く、触れる、手当てをする、をサイクルとして取り組むようにしている。



新宿のとある病院には行けなくなってしまった。
先生と処方箋のことでバトルしてしまいそこから過眠と逃避という手段をわたしはまだ手放せない。

ということで、また一人で悩んで、電話かけたりメールをしたりで繋がった、緑豊かな場所にある古い病院に転院することにした。

すぐに連絡をくれて嬉しかった。

ありがたい。